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以前、中性子のベータ崩壊はニュートリノが入射して電子をはじき出すというメカニズムを説明した。ベータ崩壊には陽電子を出すベータ+崩壊がある。
11C -> 11B + e(+) + ν
炭素11がホウ素11に変換される。この場合、原子核内部では陽子が中性子に替わっている。つまり、電子が1個追加された状態だ。対生成では電子と陽電子が発生する。原子核の近傍に強いガンマ線を打ち込むと対生成が起きる。ベータ+でも原子核内部で対生成が起きていると考えられる。電子と陽電子はなぜ一緒に発生するのだろうか?
ニュートリノは原子核を媒質にして伝わっていると考えられる。陽子に突入したニュートリノは陽子内部を衝撃波として通り抜けていく。
ところで、陽子同士が衝突するとそこに電子が生じる可能性を指摘した。
エネルギーの高いニュートリノが陽子に突入すると水玉に水滴が落ちたときのように、まず、陽子の表面が裏返って電子ができる。次に陽子からニュートリノが出ていくときに陽子の一部を引きずっていく。陽電子ができる。陽電子は反発力で飛び去るが、陽子内部に出来た電子は表面に移動して、原子核のほかの陽子をひきつけて結合する。
陽子同士を衝突させると中性子が発生する。
偏極陽子と原子核の衝突反応で大きな左右非対称性を発見
ムー3月号では、地球空洞崩壊を解説したが、磁場と重力はどうなっているんだという疑問をよく聞く。このブログや「電気的地球科学2」を読んでいる読者なら、理解できていると思うが、重力も磁場も、厚さ1500キロのマントル内部で発生している。
マントルの主成分であるカンラン石が相転移をして大量の電子を放出している。地下275km付近には蓄えられた電子が存在する。この電子が自転で回転することで、重力と磁場を同時に発生させているのだ。
電気的地球科学は地球の誕生から、その構造、磁場、重力の発生を矛盾なく説明している。興味のある人はこのブログの過去記事を読んでほしい。
2月7日発行の月刊ムー3月号の特集記事に「地球空洞崩壊!電気的宇宙論が解く超古代史の謎」が掲載されます。このブログでは触れなかった地球の歴史を説明しました。あっと驚く内容です。ぜひ読んでください。
1815年にベルギーのワーテルローで行われたイギリス、オランダの連合軍とフランス軍の戦いでは、非常に象徴的な戦闘があった。イギリスの小隊が装備していたベーカー銃が非常に戦果を挙げたのだ。ベーカー銃はフランス軍のマスケット銃に対して、筒の中にらせんが刻まれていた。ライフルだ。そのため、マスケット銃が数十メートル離れるとほとんど命中しないのに対して、ライフルのあるベーカー銃は100メートルを超える命中精度があった。フランス兵の銃弾が届かない距離でイギリス兵は敵を撃つことができたのだ。
ベーカー銃はすぐにイギリスのエンフィールド工廠で量産され、カナダに持ち込まれた。その後、現在と同じカートリッジ式に改造されて、スプリングフィールド銃へと進化する。
ベーカー銃
スプリングフィールド銃は南北戦争において北軍を勝利させた。南軍もスプリングフィールド銃と同程度のエンフィールド銃を装備していたが、安く大量に作れるスプリングフィールド銃は100万丁以上も生産され、兵に行きわたった。その余ったスプリングフィールド銃は日本にも大量に輸入された。幕府軍と薩長軍は、当時の最新式の銃で撃ちあったのだ。しかし、当初幕府軍はフランスを頼っていたため、先込め式のゲベール銃を使っていた。いっぽうの薩長軍はベーカー銃を改良した元込め式のミニエー銃だった。ミニエー銃を供給したのはイギリスと縁が深いグラバー商会だったかもしれない。この銃の差が幕府軍と薩長軍の勝敗を決したという見方もある。明治維新はワーテルローの戦いで薩長軍の勝利が決まっていたのだ。
ちなみに、薩摩藩に武器を購入できる大量の資金があったのは、琉球で行っていたサトウキビ栽培のおかげである。砂糖は薩摩藩の武士に脳の栄養を与えるだけでなく資金も与えていたわけだ。
モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻が産業革命を促したことには、もうひとつの要素がある。ねじの発明だ。ねじは騎士の甲冑を止めるために使われたのが最初と言われている。14世紀ごろのことだ。なぜ、甲冑にねじが必要となったかといえば、鐙の普及である。
馬に乗るための鐙は、紀元前に中国で使われたのが最初らしいが、ヨーロッパでは長い間、鐙がなかった。鐙がないとどうなるかといえば、踏ん張りがきかないのである。馬上で弓や刀を振り回す際に、力が入りにくくなるのだ。
ヨーロッパの中世の騎士といえば、馬に乗って長い槍を相手に突き刺すというイメージを持つ。これは中世の戦闘が騎士と騎士の一騎打ちで戦われたからだ。一騎打ちは日本でも同じだった。これが変わるのは鉄砲の普及による。もう少し先の話だ。
槍を持って突撃する一騎打ちでは、甲冑の精度が騎士を守る重要なカギになる。隙間なく鉄板をつなぎ合わせて、槍から騎士を防ぐのだ。この一騎打ちに鐙が加わったのだ。鐙がない時代の一騎打ちでは、踏ん張りがきかないために槍の貫通力も弱かった。ところが鐙が普及すると突撃する際の槍の貫通力が飛躍的に増大した。
上は鐙が導入される前の槍だ。下は鐙が普及した後の槍。何が変わったかといえば、ストッパーが付いたのだ。鐙のために突撃力が増して貫通力が強くなると、槍が相手の体に突き刺さりすぎて抜けなくなる。それを防ぐためにストッパーをつけた。
槍のストッパー、返しは鐙の普及により必要とされた。矛に対して盾がある。槍の威力が増すと甲冑の改良がおこなわれた。槍先が入り込む隙間を出来るだけなくしたのだ。
金属板をつなぐためにねじが発明された。日本でも戦場での戦闘は一騎打ちだった。しかし、モンゴルの襲来などで戦闘は集団戦へと変わっていった。皮の鎧兜のまま鉄砲が普及した。日本でのねじは鉄砲の伝来と同時だったとされている。
ねじの普及は、その後スプリングフィールド銃で規格化が行われた。それまでの銃は、個別に部品の大きさが調整されていたので、壊れたとき、同じ銃から部品をとって修理することが難しかった。それを同一規格の部品とすることで量産と修理を簡単にしたのがスプリングフィールド銃だった。南北戦争で大量に生産されたスプリングフィールド銃は、余った銃が日本に輸出されて、明治維新をもたらすことになる。