Pages: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 20 >>
このブログでは筆者が思いついたときにメモ代わりに書き込んでいる場合が多い。だから、とりわけ理解しやすいようには書いていない。文章のテクニックとして教養やある程度の理解力を要するものもある。(わざと難解にしているのは理解力や教養に不自由な人避け。からまれるとめんどくさいから)
まとめて書くときにはできるだけ順序良く、読み手が理解しやすいように書いている。たとえば、最近、noteで量子力学と電気的地球科学についてまとめている。
ブログでわかりにくかった人はぜひ読んでもらいたい。
できるだけわかりやすくとは言うものの、わかりやすくすると間違ってしまう場合もある。複雑で難しいことは、そのまま書くしかないことを了解してほしい。
1815年にベルギーのワーテルローで行われたイギリス、オランダの連合軍とフランス軍の戦いでは、非常に象徴的な戦闘があった。イギリスの小隊が装備していたベーカー銃が非常に戦果を挙げたのだ。ベーカー銃はフランス軍のマスケット銃に対して、筒の中にらせんが刻まれていた。ライフルだ。そのため、マスケット銃が数十メートル離れるとほとんど命中しないのに対して、ライフルのあるベーカー銃は100メートルを超える命中精度があった。フランス兵の銃弾が届かない距離でイギリス兵は敵を撃つことができたのだ。
ベーカー銃はすぐにイギリスのエンフィールド工廠で量産され、カナダに持ち込まれた。その後、現在と同じカートリッジ式に改造されて、スプリングフィールド銃へと進化する。
ベーカー銃
スプリングフィールド銃は南北戦争において北軍を勝利させた。南軍もスプリングフィールド銃と同程度のエンフィールド銃を装備していたが、安く大量に作れるスプリングフィールド銃は100万丁以上も生産され、兵に行きわたった。その余ったスプリングフィールド銃は日本にも大量に輸入された。幕府軍と薩長軍は、当時の最新式の銃で撃ちあったのだ。しかし、当初幕府軍はフランスを頼っていたため、先込め式のゲベール銃を使っていた。いっぽうの薩長軍はベーカー銃を改良した元込め式のミニエー銃だった。ミニエー銃を供給したのはイギリスと縁が深いグラバー商会だったかもしれない。この銃の差が幕府軍と薩長軍の勝敗を決したという見方もある。明治維新はワーテルローの戦いで薩長軍の勝利が決まっていたのだ。
ちなみに、薩摩藩に武器を購入できる大量の資金があったのは、琉球で行っていたサトウキビ栽培のおかげである。砂糖は薩摩藩の武士に脳の栄養を与えるだけでなく資金も与えていたわけだ。
モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻が産業革命を促したことには、もうひとつの要素がある。ねじの発明だ。ねじは騎士の甲冑を止めるために使われたのが最初と言われている。14世紀ごろのことだ。なぜ、甲冑にねじが必要となったかといえば、鐙の普及である。
馬に乗るための鐙は、紀元前に中国で使われたのが最初らしいが、ヨーロッパでは長い間、鐙がなかった。鐙がないとどうなるかといえば、踏ん張りがきかないのである。馬上で弓や刀を振り回す際に、力が入りにくくなるのだ。
ヨーロッパの中世の騎士といえば、馬に乗って長い槍を相手に突き刺すというイメージを持つ。これは中世の戦闘が騎士と騎士の一騎打ちで戦われたからだ。一騎打ちは日本でも同じだった。これが変わるのは鉄砲の普及による。もう少し先の話だ。
槍を持って突撃する一騎打ちでは、甲冑の精度が騎士を守る重要なカギになる。隙間なく鉄板をつなぎ合わせて、槍から騎士を防ぐのだ。この一騎打ちに鐙が加わったのだ。鐙がない時代の一騎打ちでは、踏ん張りがきかないために槍の貫通力も弱かった。ところが鐙が普及すると突撃する際の槍の貫通力が飛躍的に増大した。
上は鐙が導入される前の槍だ。下は鐙が普及した後の槍。何が変わったかといえば、ストッパーが付いたのだ。鐙のために突撃力が増して貫通力が強くなると、槍が相手の体に突き刺さりすぎて抜けなくなる。それを防ぐためにストッパーをつけた。
槍のストッパー、返しは鐙の普及により必要とされた。矛に対して盾がある。槍の威力が増すと甲冑の改良がおこなわれた。槍先が入り込む隙間を出来るだけなくしたのだ。
金属板をつなぐためにねじが発明された。日本でも戦場での戦闘は一騎打ちだった。しかし、モンゴルの襲来などで戦闘は集団戦へと変わっていった。皮の鎧兜のまま鉄砲が普及した。日本でのねじは鉄砲の伝来と同時だったとされている。
ねじの普及は、その後スプリングフィールド銃で規格化が行われた。それまでの銃は、個別に部品の大きさが調整されていたので、壊れたとき、同じ銃から部品をとって修理することが難しかった。それを同一規格の部品とすることで量産と修理を簡単にしたのがスプリングフィールド銃だった。南北戦争で大量に生産されたスプリングフィールド銃は、余った銃が日本に輸出されて、明治維新をもたらすことになる。
人が入れ替わることで社会が変わると書いた。一人の人間の考え方が途中で変わることはほとんどない。古い考え方を持つ人間が死んでいき、新しい考えを持つ人間が生まれてくることで社会は変わる。だが、新しい考え方が生まれてくる人間にすべて受け入れられるわけではない。古い考え方が生まれてくる人間を縛り付けるほうが多い。
「薔薇の名前」では新しい知識を否定する教会の権威が一つのテーマになっていた。現在を見ても普通の人間は保守的で古い大勢の考え方に同調しやすい。新しい考えが増えるためには人口増加が不可欠なのだ。
その点で日本はすでに著しい人口減少に追い込まれた。毎年50万人も減っているのは、かなり危機的だ。科学研究はある程度人口が多く、経済的余裕がないと進まない。現在の科学は貧困にあえいだ状態で研究はできない。中世に科学を探求したのが富裕層であり、貴族の宴会の余興で披露される奇術のようなものが科学実験だった。芸術と同じで科学も旦那衆が必要だ。
17世紀に起きた科学革命には伏線がある。12世紀のルネッサンスだ。このとき、馬の胸に当てる帯、胸帯が発明された。それまで畑を耕すスキを引くのはもっぱら牛の役目だった。背中に飛び出た肩甲骨に棒をあてがいスキを引かせた。牛よりも馬のほうが歩く速度が速いので馬にひかせればいいと思うだろうがそうはいかない。馬にはスキを引くための棒を当てる突起がない。首に輪をかけると首が閉まって馬は歩けなくなるのだ。
胸帯は馬にスキを引かせるための画期的な発明だった。畑を耕す速度が一気に数倍になったからだ。
農耕の効率化は農村部から都市部へと人口を移動させる役目も果たした。人手が余ったからだ。ちょうどこのころ、大航海時代が始まる。一攫千金を求めてヨーロッパから大量の人間が飛び出した。これが15世紀の新大陸発見につながる。
速水融の歴史人口学によれば、人口の圧力が社会を変える原動力となる。人口圧は新大陸に及んで、大量の砂糖生産が始まった。
11世紀には中国でも近代科学の萌芽があった。鄭和の大航海もあった。しかし中国では科学革命が起きなかった。原因は砂糖である。人間の脳は糖分を栄養源とするが、でんぷんから体内で糖を得るより、直接砂糖を摂取したほうが効率がいい。砂糖は人間の思考を働かせるために欠かせない栄養だ。中国ではつい最近まで砂糖が足りなくて、合成甘味料が使われていた。
15世紀末から新大陸で始まった砂糖生産は16世紀に大量にヨーロッパにもたらされた。砂糖を楽しむためイギリスはインドから紅茶を輸入した。大量の砂糖を入れたティーをふるまうサロンができた。サロンにはある程度金を持つ暇人が集まって、科学議論を戦わせることになる。人嫌いで変人のキャベンディッシュもティーサロンには来たという。
初めのころ砂糖は高価で貧民の口にはなかなか入らなかったが、18世紀には一般庶民にも豊富に供給された。産業革命で都市部に流入した農民は、安い貸し間で、朝食に砂糖のかすを食べて工場に出かけた。フランスでも砂糖菓子が流行した後、フランス革命が起きた。
人口の圧力に加え、食糧生産、砂糖の大量供給が科学革命と産業革命を進める原動力になったのだ。日本では江戸末期に薩摩藩が琉球でサトウキビ栽培に成功して、大量の砂糖を供給できるようになった。坂本龍馬はいつも懐に金平糖を持っていた。西郷隆盛の好物はウナギを甘いたれにつけて焼いたものだった。
社会が変わるためには最初に人口の圧力があって、次に砂糖の供給がある。イスラム社会にも人口増加があって、お茶に大量の砂糖を入れて飲む習慣もある。
今日気が付いたが、速水融先生が12月に亡くなっていた。慶応大学に研究室を訪ねたことを思い出してしまった。
アマゾンでは現在Kindleアンリミテッドを99円で読めるキャンペーンを行っている。3ヶ月間99円なので297円で読み放題だ。この機会に「電気的地球科学1・2」を読んでみてはいかがだろう?
KindleUnlimited99円キャンペーン
30日間無料体験コースもあるので、実質、「電気的地球科学1・2」を無料で読めてしまう。