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相対性理論が間違っているという主張は良く見かけるかもしれないが、量子力学が間違っているとはあまり聞かない。相対性理論がアインシュタイン一人によって考案されたのとは違って、量子力学は大勢の物理学者がその発展に関わっているからと言われている。大勢関わっていれば間違えないのだろうか? しかし、量子力学もその始まりから間違っているのだ。間違いがなぜ入り込んだのか? ひとつずつ追っていこう。
19世紀、製鉄業の発展で熱力学が発達した。鉄を精錬する過程で、炉の温度を測る技術が求められたからだ。炉の放つ熱は、色で温度がわかることが経験的に知られていた。そこで製鉄の品質を改善するため、炉の放射する温度を理論的に解明することが重要視された。そこで明らかになったのが、炉をモデルにした空洞放射のエネルギーは波長の整数倍に比例すると言う数式だった。炉のエネルギーは連続ではなく、飛び飛びの値をとることがわかったのだ。これが量子の発端だ。
電磁気学を作ったマクスウエルも熱力学を研究していた。そこにファラデーの実験ノートをまとめる仕事が入った。ファラデーはマクスウエルの前に、キャベンディッシュの実験ノートを整理する作業をやっていた。もともと、ファラデーのイメージしていた電荷、クーロン力は、まっすぐに対象に届くと考えられていた。ところがマクスウエルは熱のイメージでクーロン力を考えたため、プラスとマイナスが途中で中和するとしてしまった。また、中和するとしたほうが計算が簡単になる。現在考えられている電気力線が途中で曲がってしまうのは、マクスウエルの考えたイメージなのだ。
この部分をもう少し詳しく説明すると、ファラデーはプラスから出てマイナスに収束する電気力線は、それぞれの密度は変わらないと考えた。つまり、プラスから出た電気力線は、途中で中和することなくマイナスに届く。ところがマックスウェルは電気力線が途中で熱のように中和してしまうと考えた。たとえば、プラスとマイナスの電荷が隣り合っている時、マックスウェルの考えでは、プラスとマイナスの電荷の差が周囲に放射される。しかしファラデーの考えでは、プラスとマイナスの電気力線はそれぞれ別々に広がって、対象に届く。このファラデーとマックスウェルの考えの違いが大きな勘違いを生んだ。
量子力学のきっかけとなった、ボーアの原子模型は1913年に考案された。プラスの電荷を持つ原子核の周囲をマイナスの電子が回っているという模型だ。当時はまだ原子核が陽子と中性子が結合しているとはわからなかった。中性子の発見は1932年だ。古典物理では、原子核の周囲を回る電子は、回転の角加速度によって電磁波を放出し、やがて原子核に落下するだろうと考えられた。そこで、1924年にド・ブロイによって、ドブロイ波が考案され、電子は波になった。
中性子が発見された当初、湯川博士は陽子と電子が結合しているのではないかと予想したらしい。中性子が複合粒子であるとの見方は、湯川博士のほかにも何人もの研究者が指摘していた。現在ではCarl JohnsonとEdo Kaalが新しい中性子像を主張している。また、常温核融合では中性子が合成されるメカニズムとして、陽子+電子を予想している。
現在の中性子は1969年にクオークが登場した後に、確立されたイメージだ。クオークによれば、陽子と中性子は異なるクオークが結合した粒子だ。現在の量子力学は1970年代に主流となった新しい学説なのだ。
よく言われる半導体の開発に量子力学が使われたというのは、正確に言えば、統計力学が使われたと言うべきだ。量子力学は波動関数などの統計的手法を熱力学・統計力学から引き継いでいる。そのため、多粒子系―マクロな系では統計力学として機能する。ところが原子核と言った粒子の少ないミクロな系では、統計的手法を少数の粒子に対して適応するので、不確定性が現れてしまう。
この矛盾が量子力学をわかりにくいものにしている。熱力学を研究していたアインシュタインが量子力学を批判した理由がこれだ。「神はさいころを振らない」という有名な台詞には、統計を粒子の少ない原子に当てはめるべきではない、という意味がこめられていたのだ。
さて、量子力学の中心には、マクスウエルの電気力線、中性粒子としての中性子がある。中性子が陽子と電子の複合粒子であれば、原子核にはマイナスの電荷が存在する。プラスとマイナスの電気力線が途中で中和せずに周囲にクーロン力を及ぼすなら、軌道上の電子は、陽子のプラスに引き付けられつつ、電子のマイナスで反発する。つまり軌道上の電子は、プラスとマイナスの電荷によりゆるくつながれた状態になっている。ドブロイ波は必要ないのだ。
1924年にドブロイ波を導入したのは、当時の趨勢から仕方なかったかもしれない。しかし、1969年にクオークが登場するまで何度も修正する機会があったはずだ。いまがそのときなのかもしれないが…
量子力学の間違いは、このように量子力学をある程度知らないと理解できない。しかし、現在の学問体系では、量子力学を知ってしまうと、そこでの批判ができない仕組みになっている。大学の研究制度、論文の査読といった障壁が批判を許さないのだ。
もうひとつの「量子」については、かなりややこしい事情がある。現在でも量子跳躍がなぜ現れるのかを説明することはできないでいる。原子核の周囲にはいくつかの周期的な距離を保つ、電子軌道が存在する。これは次の記事で解説したい。
このブログでは、相対性理論のことはあまり取り上げていない。その前の万有引力が間違っているので、相対性理論の間違いを指摘してもあまり意味がないと考えているからだ。最近では、高校の教科書にも相対性理論やビッグバン宇宙論が書いてあると言う。一度、教科書で覚えたことをひっくり返すのは、フツウの人には難しいことだ。大部分の人はそのまま疑問を持たずに一生過ごすことになる。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー)では社会を変革してきたのは、宗教が導いた勤勉性と指摘した。同時に社会を成立させているのは、人間の持つ習慣であるとも説いた。ところが、この習慣を変えることは非常に難しい。世の中が一朝一夕に変わらないのは、習慣の持つ頑固さが原因といえる。
よく、科学はいずれも仮説の状態で、よりよい理論が登場することで進歩する、と訳知り顔で説く人がいるが、相対性理論の場合は、ニュートンの万有引力とマクスウエルの勘違いした電磁気学の上に乗っかっているため、一切合財を削除するしかない。代替の理論はないのだ。
また、GPSで使われているから、正しいとするのも、根拠は否定的だ。GPSの開発では、現場あわせによる修正が行われたという。相対論的効果=原子時計の遅れ、は毎日定期的に行われる地上からの時刻補正で修正されているというが、これはいくつもあるGPSの修正のひとつに過ぎない。電気的地球科学では、衛星軌道上の原子時計の遅れは、ニュートリノ密度の差による。
もう一度書いておくが、99%の人は、一度間違った認識を覚えてしまうと修正できない。とくに暗記力を訓練してきた人は、暗記したものが自我の一部になってしまうので、無条件で自我を守ろうとする仕組みが働いてしまう。相対性理論の間違いに気がつくことは、宗教的気づきに等しいのだ。相対性理論についての議論がしばしば紛糾するのは、宗教対立と同じ構造がある。
物事を論理的に考えるということは意外と難しい。たいていの人は、目の前の出来事を記憶の引き出しから探してきて、条件反射として、意識・行動している。日常のほとんどはこの繰り返しだ。いちいち、考えていたらまったく前に進むことができないだろう。おまけに人間の精神には自己擁護という機能がついている。過去・現在の自分を自動的に肯定する機能だ。合理的に考えるためには、最初にこの自己擁護を機能停止にしておかないとだめなのだ。でも、これは訓練しないと出来ない。
このブログで展開している電気的地球科学も多くの人にとっては、ただのノイズでしかないだろう。学校で教わった常識、教科書などに書いてあることとは、あまりにかけ離れた内容だからだ。論理を積み上げることでしか、これから書くことは理解できないだろうし、そのまえに反感を買うだけだ。
陽子は空洞ではないかという予想をした。陽子だけではなく電子も空洞である可能性が高い。通常、電子の大きさはわからないことになっているが、SEAMでは電圧が高いのは電子の大きさではないかと指摘している。

太陽が空洞であるのと同じ仕組みで、陽子は内部のプラスの電荷で反発、膨らんでいる。電荷はニュートリノがもたらすので、ニュートリノの入射で増える。増えると膨らんで大きくなるが、そのとき周囲にガンマ線を放出して、再び元に戻る。

陽子が近づくとどうなるだろう。脳内シミュレーションで考えてみた。通常、プラス同士の陽子は反発して近づくことはない。電気的反発力より強い力で押し付けられたとき、両者はどうなるだろう?

プラスの電荷を持つ陽子の表面は、近づくと強力な反発力で変形する。ピンポン玉を指で押すとプラスチックが凹んで内側に反り返る。同じことが陽子の表面で起きる。内側に凹んだ面は、円形だ。そのふちは鋭くとがっているはずだ。

凹んだ部分の周囲は、ふちになって鋭い形になるはずだ。最も反発力が少ない形状になる。この部分が接触すると陽子と陽子の間に、小さな球状の形が生まれる。電荷の極性は変わることがないというのが現在の物理学の常識だ。しかしSEAMでは、ここに新しい法則を予測してみたい。陽子を構成している壁が裏表反転すると極性も反転する。プラスからマイナスの電荷に逆転するという予想を立ててみよう。
すると陽子が衝突したその間隙に電子が生まれる。陽子と陽子をそのままつなぎとめれば、中間子という事になる。陽子と電子は同じモノから出来ていることになる。すると、この世界は裏表が互いに逆の電荷を持つ不思議な物質で出来ていることになる。本当か?
電子に電界を加えると移動する原因はクーロン力です。クーロン力がなぜ生じるかはわかっていません。電圧はクーロン力の大小を決めます。では電圧とは具体的に何なのか? たとえば、ミュー粒子は電子がエネルギーを得て励起した状態と考えられます。中間子はミュー粒子よりさらに大きなエネルギー、電圧を加えられた電子です。ミュー粒子、中間子は周囲に及ぼすクーロン力が大きい状態です。クーロン力は距離の二乗に反比例、電荷量の積に比例します。
F = k*q1*q2/r^2
この式を見ると、距離が離れればクーロン力が減少しますが、電荷量が増えると増加します。距離と電荷量の大きさは等価なのです。つまり、電子で言えば直径が大きくなっている状態と考えられます。電圧とは、電子の大きさなのではないか? という予想です。
電子の大きさが電圧であるとすると、陽子の内部は空洞という予想が重なってきます。電子もまた内部が空洞であると推測できるからです。
すると、陽子、電子の外側の殻を作っているモノが、この世界の実体という事になります。
twitterで空が青いのはオゾン層が発光しているためと書いたら、急にアクセスが増えた。ついでに夕日が赤いのは電離層が発光しているためと書いたら、結構反論がついた。でも、この画像を見ると電離層が発光しているのは一目瞭然だ。

グリーンフラッシュは非常に珍しい現象で、夕日が沈むとき、あざやかな緑に光る。めったに現れないが、ネット上にはたくさんの画像がアップされている。wikipediaでは、グリーンフラッシュは次のように説明されている。
「地球の大気に斜めに入射することによって、太陽光は、プリズムによって光が曲げられるのと同じように屈折する。一方、太陽光は、大気によるレイリー散乱のため短い波長から散乱されて、波長の長い赤に近い光だけが地表に届くことになる。これが夕日の赤い理由であるが、空気が非常に澄んだ条件では、より波長の短い緑の光まで散乱されずに届く。
この時、赤から緑の色に分離した太陽が上下に少しずれながら重なり合って見えていることになるが、赤色の方がはるかに強いため太陽は赤く見える。しかし、日没や日の出の際に赤色の太陽が地平線、水平線、雲で隠された時、最頂部の緑色の太陽のみが見えることになる。この光が、大気のゆらぎによってまたたくものと考えられる。 」
こんなややこしい現象が起きるか疑問だが、F層の下にはE層があって、緑に発光するのだ。

E層の厚さはわずか40km程度しかないので、よほど強く発光しないと緑は見えない。太陽光が傾き斜めに電離層を横切るとき、E層が強調される瞬間があるのだろう。その下にあるD層は黄色く発光するが、太陽光に紛れ目立たないと考えられる。Wikipediaの説明のように大気がプリズムの役目をするなら、なぜほかの色が出てこないのか説明できない。波長のせいなら、太陽の傾き加減で夕日の色は変化するはずだ。

電離層が緑に発光すると考えたほうが合理的だろう。