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このブログでは、相対性理論のことはあまり取り上げていない。その前の万有引力が間違っているので、相対性理論の間違いを指摘してもあまり意味がないと考えているからだ。最近では、高校の教科書にも相対性理論やビッグバン宇宙論が書いてあると言う。一度、教科書で覚えたことをひっくり返すのは、フツウの人には難しいことだ。大部分の人はそのまま疑問を持たずに一生過ごすことになる。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー)では社会を変革してきたのは、宗教が導いた勤勉性と指摘した。同時に社会を成立させているのは、人間の持つ習慣であるとも説いた。ところが、この習慣を変えることは非常に難しい。世の中が一朝一夕に変わらないのは、習慣の持つ頑固さが原因といえる。
よく、科学はいずれも仮説の状態で、よりよい理論が登場することで進歩する、と訳知り顔で説く人がいるが、相対性理論の場合は、ニュートンの万有引力とマクスウエルの勘違いした電磁気学の上に乗っかっているため、一切合財を削除するしかない。代替の理論はないのだ。
また、GPSで使われているから、正しいとするのも、根拠は否定的だ。GPSの開発では、現場あわせによる修正が行われたという。相対論的効果=原子時計の遅れ、は毎日定期的に行われる地上からの時刻補正で修正されているというが、これはいくつもあるGPSの修正のひとつに過ぎない。電気的地球科学では、衛星軌道上の原子時計の遅れは、ニュートリノ密度の差による。
もう一度書いておくが、99%の人は、一度間違った認識を覚えてしまうと修正できない。とくに暗記力を訓練してきた人は、暗記したものが自我の一部になってしまうので、無条件で自我を守ろうとする仕組みが働いてしまう。相対性理論の間違いに気がつくことは、宗教的気づきに等しいのだ。相対性理論についての議論がしばしば紛糾するのは、宗教対立と同じ構造がある。
物事を論理的に考えるということは意外と難しい。たいていの人は、目の前の出来事を記憶の引き出しから探してきて、条件反射として、意識・行動している。日常のほとんどはこの繰り返しだ。いちいち、考えていたらまったく前に進むことができないだろう。おまけに人間の精神には自己擁護という機能がついている。過去・現在の自分を自動的に肯定する機能だ。合理的に考えるためには、最初にこの自己擁護を機能停止にしておかないとだめなのだ。でも、これは訓練しないと出来ない。
このブログで展開している電気的地球科学も多くの人にとっては、ただのノイズでしかないだろう。学校で教わった常識、教科書などに書いてあることとは、あまりにかけ離れた内容だからだ。論理を積み上げることでしか、これから書くことは理解できないだろうし、そのまえに反感を買うだけだ。
陽子は空洞ではないかという予想をした。陽子だけではなく電子も空洞である可能性が高い。通常、電子の大きさはわからないことになっているが、SEAMでは電圧が高いのは電子の大きさではないかと指摘している。
太陽が空洞であるのと同じ仕組みで、陽子は内部のプラスの電荷で反発、膨らんでいる。電荷はニュートリノがもたらすので、ニュートリノの入射で増える。増えると膨らんで大きくなるが、そのとき周囲にガンマ線を放出して、再び元に戻る。
陽子が近づくとどうなるだろう。脳内シミュレーションで考えてみた。通常、プラス同士の陽子は反発して近づくことはない。電気的反発力より強い力で押し付けられたとき、両者はどうなるだろう?
プラスの電荷を持つ陽子の表面は、近づくと強力な反発力で変形する。ピンポン玉を指で押すとプラスチックが凹んで内側に反り返る。同じことが陽子の表面で起きる。内側に凹んだ面は、円形だ。そのふちは鋭くとがっているはずだ。
凹んだ部分の周囲は、ふちになって鋭い形になるはずだ。最も反発力が少ない形状になる。この部分が接触すると陽子と陽子の間に、小さな球状の形が生まれる。電荷の極性は変わることがないというのが現在の物理学の常識だ。しかしSEAMでは、ここに新しい法則を予測してみたい。陽子を構成している壁が裏表反転すると極性も反転する。プラスからマイナスの電荷に逆転するという予想を立ててみよう。
すると陽子が衝突したその間隙に電子が生まれる。陽子と陽子をそのままつなぎとめれば、中間子という事になる。陽子と電子は同じモノから出来ていることになる。すると、この世界は裏表が互いに逆の電荷を持つ不思議な物質で出来ていることになる。本当か?
電子に電界を加えると移動する原因はクーロン力です。クーロン力がなぜ生じるかはわかっていません。電圧はクーロン力の大小を決めます。では電圧とは具体的に何なのか? たとえば、ミュー粒子は電子がエネルギーを得て励起した状態と考えられます。中間子はミュー粒子よりさらに大きなエネルギー、電圧を加えられた電子です。ミュー粒子、中間子は周囲に及ぼすクーロン力が大きい状態です。クーロン力は距離の二乗に反比例、電荷量の積に比例します。
F = k*q1*q2/r^2
この式を見ると、距離が離れればクーロン力が減少しますが、電荷量が増えると増加します。距離と電荷量の大きさは等価なのです。つまり、電子で言えば直径が大きくなっている状態と考えられます。電圧とは、電子の大きさなのではないか? という予想です。
電子の大きさが電圧であるとすると、陽子の内部は空洞という予想が重なってきます。電子もまた内部が空洞であると推測できるからです。
すると、陽子、電子の外側の殻を作っているモノが、この世界の実体という事になります。
twitterで空が青いのはオゾン層が発光しているためと書いたら、急にアクセスが増えた。ついでに夕日が赤いのは電離層が発光しているためと書いたら、結構反論がついた。でも、この画像を見ると電離層が発光しているのは一目瞭然だ。
グリーンフラッシュは非常に珍しい現象で、夕日が沈むとき、あざやかな緑に光る。めったに現れないが、ネット上にはたくさんの画像がアップされている。wikipediaでは、グリーンフラッシュは次のように説明されている。
「地球の大気に斜めに入射することによって、太陽光は、プリズムによって光が曲げられるのと同じように屈折する。一方、太陽光は、大気によるレイリー散乱のため短い波長から散乱されて、波長の長い赤に近い光だけが地表に届くことになる。これが夕日の赤い理由であるが、空気が非常に澄んだ条件では、より波長の短い緑の光まで散乱されずに届く。
この時、赤から緑の色に分離した太陽が上下に少しずれながら重なり合って見えていることになるが、赤色の方がはるかに強いため太陽は赤く見える。しかし、日没や日の出の際に赤色の太陽が地平線、水平線、雲で隠された時、最頂部の緑色の太陽のみが見えることになる。この光が、大気のゆらぎによってまたたくものと考えられる。 」
こんなややこしい現象が起きるか疑問だが、F層の下にはE層があって、緑に発光するのだ。
E層の厚さはわずか40km程度しかないので、よほど強く発光しないと緑は見えない。太陽光が傾き斜めに電離層を横切るとき、E層が強調される瞬間があるのだろう。その下にあるD層は黄色く発光するが、太陽光に紛れ目立たないと考えられる。Wikipediaの説明のように大気がプリズムの役目をするなら、なぜほかの色が出てこないのか説明できない。波長のせいなら、太陽の傾き加減で夕日の色は変化するはずだ。
電離層が緑に発光すると考えたほうが合理的だろう。
自分が科学的であると自覚している人でも、科学とは何かを徹底的に考えた人は少ない。筆者は科学史と科学哲学を図書館で読んだ程度で、ポパーの反証可能性とクーンの科学革命くらいしか知らなかった。1970年代にニューサイエンスブームがアメリカからやってきた。ちょうどこのころは、プレートテクトニクス、ビッグバン理論が日本に紹介された時期でもあった。日本人研究者がビッグバンを補完するインフレーションを主張したことを雑誌で読んだ記憶がある。新しい理論、考え方が大量に入ってきた時代だ。
これら新理論の背景には、観測装置、機器の開発による新発見が大量にあった。海底掘削により、海底の構造が明らかになるとプレート移動の根拠が補強された。電波天文学による中性子星の発見、宇宙背景放射の精密測定などがビッグバンを強固にした。
しかし、プレートテクトニクスには地球膨張論、ビッグバンには定常宇宙論が対抗としてあった。定常宇宙論を主張する日本人研究者がいなかったせいか、ビッグバンは比較的すんなりと日本に受け入れられた。プレートテクトニクスは、岩石学の権威が地球膨張論を主張していたため、すんなりとはいかなかったようだ。当時を思い出すとNHKによるプレートテクトニクスの紹介番組や山のように書籍が出たことを覚えている。科学雑誌にも盛んに紹介された。プレートテクトニクスは、学会ではなく一般大衆という外堀から攻められた。その後、地震研究はプレートテクトニクス以外には予算がつかない状態に成ったらしい。
新しい理論は、従来の理論より優れているから普及するといわれるが、このような70年代に起きた事情を知っている者から見れば、明らかに間違っているといえる。かなり科学以外の意図が作用している。研究費という政治的理由がそこには見え隠れする。プレートテクトニクスの導入には、地震予算の誘致があった。
ビッグバンにも同じ事情がある。現在のJAXAの前身である宇宙開発事業団は技術供与などでNASAと提携をしていた。当時のアメリカは、1950年代から続いたヴェリコフスキーとの議論で、かたくなに定常宇宙論、プラズマ宇宙論を否定していた。日本の研究者はビッグバン宇宙論を受け入れざるを得なかった。余談になるが、NASA、JAXAの異説を排除する姿勢には、宗教的信仰を感じるほどだ。
前振りが長くなったが、この半世紀の間、科学では何が科学かと言う哲学的議論がほとんどないことがわかってもらえたと思う。とくに1990年代、チェルノブイリ事故以降、日本では科学雑誌が激減して、いわゆるポピュラーサイエンスが終焉した。プレートテクトニクス、ビッグバン理論、学校で教える科学以外をすべて排除する仕組みが出来上がった。STAP細胞の騒動などは、すべてこの排除システムが順当に機能した結果だ。
科学的とは何か? すでにデカルトが明確に指摘している。デカルトは機械的世界観を主張した。機械時計のように自然は部品が組み合わさって動いている。自然を部品に分解して理解するのが還元主義とも呼ばれる、デカルトの機械的自然観だ。しかしこの見方はデカルトの主張の半分しか表していない。自然を物と物で説明することは、物を操作すれば自然を操作できる、これがデカルトの主張の本当の意味なのだ。
デカルトは近接作用で自然を説明することを主張した。近接作用は物と物が直接接することで働く。ニュートンの万有引力は、近接作用に反する、遠隔作用だった。また、当時の天文家が抱いていた惑星間に働く斥力を無視していた。ガリレオ、ケプラーなどは、天空をふらふらと惑う星同士がなぜぶつからないかを考えていた。引力だけでは、やがて宇宙はひとつの固まりになるとカントは万有引力を批判した。
地上と宇宙空間に働く引力が同じ力であると証明されたことは一度もない。引力は物の量に比例するとプリンキピアには書かれていたが、誰も実験で証明できなかった。1世紀後に行われたキャベンディッシュの実験は、鉛が反磁性体であることをファラデーが発見して、否定された(はずだった)。そんなことを知らない実験しない科学者、アインシュタインは万有引力を、数学上の概念である空間を使って、証明してしまった。空間は物ではない。空間を操作することは不可能なので、引力は制御できない力になった。
合理的、論理的に考えることは非常に難しい。たとえばスポーツは何度も基本的な動作を繰り返すことで、次第に複雑な動きを習得していく。小脳には体を動かすための経験が神経パターンとして蓄積される。考えることも同じだ。単純な論理を組み合わせて複雑な論理を組み立てるが、その段階は経験によって練習が必要だ。いきなり、複雑なことを論理的に考えることは出来ない。思考をつかさどる大脳辺縁系に合理的に考えるための神経パターンがないからだ。ほとんどの人は考える訓練をしたことがない。学校ではひたすら教科書を疑問を抱くことなく暗記する。暗記だけの訓練が12年間、長いと16年から18年も続く。学歴が高いほど、合理的に考えることができなくなる。これは脳機能の成長の結果だ。
科学的であることは、若いときに考える訓練を積んで、デカルトの方法論を実践する先にある。思い立ってすぐにできるというわけにはいかない。