アーノルト・ゲーレンはドイツの哲学者で、ナチスに加担したとして批判された。筆者は『人間―その本性および自然界における位置 』法政大学出版局、を図書館で借りて読んだだけだが、かなり影響を受けたと感じている。
ゲーレンの業績は哲学と言うより、自然科学、人類学での人間意識の変遷を明らかにしたことが大きいと思う。なかでも道具的理性の解明は、無意識の構造を明確にし、その欠陥も指摘した。ユングの無意識が夢のような漠然としたものであるのに対して、ゲーレンの道具的理性はきわめて論理的だ。
たとえば、南米のギアナ高地には、古代から進化の止まったカエルが生息している。この古代カエルは、動きがぎこちない。手足を一歩ずつ確かめるように前に出して歩く。ほかの進化した動物なら、歩くといった行動は、無意識に繰り込まれていて、考えずに手足を動かすことができる。古代カエルは、まだ無意識ができておらず、一歩一歩手と足を動かすことを意識しないといけないのだ。
人間の成長もまた古代カエルと同じだ。人間の基本的動作はDNAの発現と考えることもできるが、意識から無意識への繰り込みが多い。初めて自転車に乗ることを考えれば、わかりやすいだろう。
無意識への繰り込みは、動作だけではなく、考えるという高等的な作用へも現れる。日本人は、掛け算の九九を暗記する。基本的な掛け算の結果を、記憶することで、複雑な計算の負担を減らすためだ。日常生活で必要な計算の多くは、九九を暗記することで効率が向上する。
九九は道具的理性のひとつだ。計算だけではなく、人間の思考は無数の道具的理性で構成されている。ある人は、積み上げられた道具的理性を巨人の肩といった。現代人は過去の人間が積み上げてきた道具的理性の上で思考を働かせている。すでに無意識に繰り込まれた理性を疑う人は少ない。
もし、九九の中に間違った計算が入っていたら、それは直感的に気がつくだろう。しかし、その間違いが非常に紛らわしいものであったとしたら、気がつくだろうか?
たとえば、プラスとマイナスの電荷がくっついていたとする。電気力線は互いに中和するので、この2つの電荷が外に働きかける電気的引力・斥力はゼロだ。これがマクスウェルの解釈だった。マクスウェルは、当時、熱の伝達を考えていたため、電気力線も熱と同じように途中で干渉するとしたのだ。
ところがファラデーは実験によりクーロン力は干渉することなく真っ直ぐに働くと考えていた。プラスとマイナスの電荷がくっついているとき、外側にもプラス、マイナスの力線は真っ直ぐに伸びている。ほかの物質には、プラスとマイナスのクーロン力が個別に作用するが、物質内部で力が合成されるため、見かけの力はゼロになる。
数式の結果は同じになるため、マクスウェルの誤解はそのまま電磁方程式として広まった。これが現代物理学に埋め込まれた道具的理性である。いまさら電気力線は中和しない、と指摘されても、ほとんどの人はそのように考えない。人間の意識には、自己を守ると言う機能が備わっていて、すでに繰り込まれた道具的意識も変更できなくなっているのだ。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー)でも、人間社会における習慣が社会変革を妨げると指摘されている。かように変革とは難しいものなのだ。