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20世紀初頭、量子力学の黎明期、原子核内に電子が存在する核内電子という概念があった。1932年にアメリカのチャドウィックが中性子を発見すると、ハイゼンベルクは短い論文を発表した。この論文を湯川博士は筆記した。そこにメモ書きがある。
鉛筆書きのメモは読み難いが以下の様な内容らしい。
「要するにこの論文の特徴は核Electron の問題に関係した難点を Neutron 自身に押しつけて了って、核が Proton、Neutronのみより構成せられるという考えが原子核の安定性に就いて定性的に如何なることがいいうるか考察したるものであって、核内に於いては electron の存在を否定することが果して当を得て(い)るかどうか、にわかに判断することが出来ないが、核を構成する単位粒子の間の相互作用がもっと明らかにされぬ限り、この論文の程度の漠然たる推論で満足する他ないであらう。」・Heisenberg の原子核構造理論の日本数学物理学会誌への詳細な紹介と1933年の学会講演「核内電子の問題に対する一考察」より
この論文で、ハイゼンベルクは原子核が陽子と中性子によって構成されているとした。だが、この時点において、核内電子の存在はまだ考慮し続けられていた、といえる。湯川博士は自身が予測した中間子は、「Neutron が electron を emitして Proton になり、Proton が electron をabsorb して Neutron になりうるということ自身が、Neutron、Proton の間の interaction の原因となること、あたかも electron が radiation を emit 又は absorb しうるということがelectron 同志(原文ママ)の interaction の原因となる如きものと考えられる。」と書き記している。
要約するなら「中性子が電子を放出して陽子になる、陽子は電子を獲得して中性子になりうる。中性子、陽子の相互作用の原因となる電子のようなもの」が中間子ということのようだ。湯川博士は計算により、中間子の質量が電子の約200倍であると予想していた。ミュー粒子の質量が電子の200倍なのは、偶然ではない。現在では、パイ中間子→ミュー粒子→電子、という崩壊過程が明らかになっている。
湯川秀樹、量子力学創生の中心にいた研究者が核内電子説を検討していたことは重要な事実だろう。だが、このあたりの資料には、電気引力・斥力についての考察が見当たらないのも事実だ。マクスウエルが見逃したファラデーの電気力線の直進性が、核内電子説を裏付ける重要な要素になるはずだった。ドブロイ波が主張されたのが1924年だから、1932年のハイゼンベルクの論文まで約8年間、まだ修正できるチャンスがあったことになる。だが1939年に第二次世界大戦が始まるため、各国の研究者は引き離された。もし、戦争がなく、研究者の意思疎通が続いていたとしたら、核内電子と軌道電子の及ぼす影響に誰かが気がついた可能性がある。
現在の量子力学を台頭させた原因は、第二次世界大戦であると言えるかもしれない。