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モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻が産業革命を促したことには、もうひとつの要素がある。ねじの発明だ。ねじは騎士の甲冑を止めるために使われたのが最初と言われている。14世紀ごろのことだ。なぜ、甲冑にねじが必要となったかといえば、鐙の普及である。
馬に乗るための鐙は、紀元前に中国で使われたのが最初らしいが、ヨーロッパでは長い間、鐙がなかった。鐙がないとどうなるかといえば、踏ん張りがきかないのである。馬上で弓や刀を振り回す際に、力が入りにくくなるのだ。
ヨーロッパの中世の騎士といえば、馬に乗って長い槍を相手に突き刺すというイメージを持つ。これは中世の戦闘が騎士と騎士の一騎打ちで戦われたからだ。一騎打ちは日本でも同じだった。これが変わるのは鉄砲の普及による。もう少し先の話だ。
槍を持って突撃する一騎打ちでは、甲冑の精度が騎士を守る重要なカギになる。隙間なく鉄板をつなぎ合わせて、槍から騎士を防ぐのだ。この一騎打ちに鐙が加わったのだ。鐙がない時代の一騎打ちでは、踏ん張りがきかないために槍の貫通力も弱かった。ところが鐙が普及すると突撃する際の槍の貫通力が飛躍的に増大した。
上は鐙が導入される前の槍だ。下は鐙が普及した後の槍。何が変わったかといえば、ストッパーが付いたのだ。鐙のために突撃力が増して貫通力が強くなると、槍が相手の体に突き刺さりすぎて抜けなくなる。それを防ぐためにストッパーをつけた。
槍のストッパー、返しは鐙の普及により必要とされた。矛に対して盾がある。槍の威力が増すと甲冑の改良がおこなわれた。槍先が入り込む隙間を出来るだけなくしたのだ。
金属板をつなぐためにねじが発明された。日本でも戦場での戦闘は一騎打ちだった。しかし、モンゴルの襲来などで戦闘は集団戦へと変わっていった。皮の鎧兜のまま鉄砲が普及した。日本でのねじは鉄砲の伝来と同時だったとされている。
ねじの普及は、その後スプリングフィールド銃で規格化が行われた。それまでの銃は、個別に部品の大きさが調整されていたので、壊れたとき、同じ銃から部品をとって修理することが難しかった。それを同一規格の部品とすることで量産と修理を簡単にしたのがスプリングフィールド銃だった。南北戦争で大量に生産されたスプリングフィールド銃は、余った銃が日本に輸出されて、明治維新をもたらすことになる。