Pages: << 1 ... 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 ... 59 >>
日本列島を中央で分断するフォッサマグナは2回の放電と膨張によってできたと説明した。ところで地球をぐるりと取り巻く太平洋火山帯は、いつできたのだろうか? マグマの帯は自然に出来たのではなく、外部から放電で電流を流し込むことによって発生したのではないだろうか?
現在の太平洋火山帯を見ると大陸にぶつかっている東側は比較的直線だが、西側の火山帯は弓状に反っていたり、サモアの近くでは急角度で曲がっている。地球の自転で東に引っ張られたこともあるが、地球膨張と重なっていると考えられる。
もし、ファラデーモーターのコイルとして太平洋火山帯を作るとしたら、地球の自転軸に対して平行に円を描くはずだ。右側のようにまっすぐな直線を描いて放電するだろう。現在の太平洋火山帯が円弧状、急角度で曲がったのはローレンツ力だけでなく地球膨張の影響が大きい。
地球膨張説ではオーストラリアは日本列島の近くにあったものが、次第に南側に移動しながら膨張したと説明される。
しかし、この説明では太平洋火山帯がまっすぐな線にはならない。オーストラリアはインドのすぐ脇から拡大しながら移動したと考えると火山帯の線はまっすぐになる。
最初に太平洋火山帯を作った放電をしたのはどの星なのだろう?7万年前の日本列島を作ったのは月だった。平坦な地形から起伏のある山岳列島を作った。トバ火山の噴火で知られる世界的な生物激減は月の放電が原因だ。その次は3500年前の金星だ。地球膨張に伴い中央部が平坦になっていた場所に放電のしずくをたらし、富士山をはじめとした火山を作った。阿蘇山などの主だった火山はこのときに出来た。
だが、このときすでに太平洋火山帯は完成されていた。4番目の太陽から現在の太陽に引き継がれたとき、最初に木星からやってきた衛星は水星だった。おそらく水星の役割は5番目の太陽の大きさを決めるためだと考えられる。太陽の大きさは別の機会に書くが、水星は現在の位置に移動するとき地球に放電して行った。
自転軸の傾きから水星は木星の衛星だったことが分かる。
最初の放電が起きたとき、地球は太平洋がちょうど半分占めていたと考えられる。花崗岩の盛上がり、バソリスが帯のように海と陸の境界にそびえていた。そこをめがけて水星の放電は地球をぐるりと1周した。大電流の流れた地下には、岩石の溶けたマグマの帯がコイルのように地球を覆った。マグマの帯には電流が流れ始め、地球はファラデーモーターとして安定した自転を始めた。
水星表面に残るクレーターは過去に放電を起こした痕跡だ。放電の相手は地球だった。
水星が放電したのはおそらく20万年前だろう。地球上の生物の9割は、突然20万年前に地球に発生したからだ。
地球上の風をリアルタイムで見ることが出来るサイトがある。台風19号の様子を見ていたら、非常に面白い現象を見つけた。
伊勢湾、大阪湾、そして瀬戸内海の九州側の出口から風が吹き出しているのだ。台風の低気圧に引きつけられ、低い地形から風が出ていると考えることも出来る。しかし、電気的地球科学では、風は気圧の差で起きるのではなく、電位差が風を吹きつける動力になっていると考えている。
すると湾に風が集中するのも、電位差が関係していると予想できる。なぜ、湾という陸地が開口した地形が出来るのか? これは、地球膨張のパターンのひとつであると考えられる。
これは渤海、東京湾などを比較した画像だが、伊勢湾、大阪湾も膨張の結果できた地形だ。
膨張した場所では、現在も電子が放出しやすいと考えられる。台風の上空では、大量のプラスの電荷、陽子が集中している。プラスの電荷に引きつけられ、地殻から電子が湧き上がってくる。誘電体バリア放電が活発になる。台風の経路は、電子が湧き出る場所をたどっている。
wikipediaの中性子の発見では、核内電子説は、いくつかの実験、仮説から排除されたと書かれている。電気的地球科学では、SEAM―静的電子原子模型を主張しているが、SEAMの観点から、核内電子説が排除された理由を見てみよう。
Ralph Kronigは、1926年に、観測された原子スペクトルの超微細構造が、陽子-電子の仮説と矛盾していることを指摘しました。この構造は、軌道を回る電子のダイナミクスに対する核の影響によって引き起こされます。想定される「核電子」の磁気モーメントは、ゼーマン効果と同様の超微細なスペクトル線分裂を生じるはずですが、そのような効果は観察されませんでした。[39] [8]:34 それはまるで電子が核内にあるときに磁気モーメントが消えたように見えた。
原子核内部は陽子と陽子が電子(中間子)により結合されていると考えられる。ゼーマン効果は、小さな半径を周回する電子軌道が揃うことで生じる、励起エネルギーの差だ。核内電子は固定されているので、ゼーマン効果は生じない。
1929年のフランコラセッティによる分子のエネルギーレベルの観測は、陽子電子仮説から予想される核スピンと矛盾していました。[8]:35 [40]二窒素(14 N 2)の分子ラマン分光法は、偶数の回転レベルからの遷移が奇数レベルからの遷移よりも強いことを示したため、偶数レベルがより多く存在します。[1]量子力学とによるパウリ排他原理のスピン14の N核の整数倍ことであるHは(プランク定数を減らした)。[41] [42]しかし、陽子と電子の両方が1/2固有スピン搬送 時間、及び±半スピンの奇数(14個のプロトン+ 7つの電子= 21)を配置する方法がない 時間であるスピンを与えることが整数倍ħ。
これも、核内電子はスピンしないので、当てはまらない。
クラインのパラドックス、[43]によって発見オスカル・クライン 1928年には、核内に閉じ込められた電子の概念にさらに量子力学的異議を提示します。[39]ディラック方程式から導かれたこの明確で正確なパラドックスは、ポテンシャル障壁に近づく高エネルギー電子が障壁を通過する確率が高いことを示した。どうやら、電子はポテンシャル井戸によって核内に閉じ込められなかったようです。このパラドックスの意味は、当時激しく議論されていました。[39]
核内電子は陽子の一部に食い込んで陽子同士を結合しているので、エネルギーが高くても原子核外に出て行くことはない。
1930年頃までに、原子核の陽子-電子モデルを量子力学のハイゼンベルグ不確実性関係と調和させることは困難であると一般に認識されていました。[39] [1] :299この関係、Δ X ⋅Δ P ≥半Hは、領域に閉じ込められた電子は原子核のサイズが有することを意味期待 10~100メガ電子ボルトの運動エネルギーを。[1] [44] [45]このエネルギーは、核から放出されるベータ粒子の観測エネルギーよりも大きい。[1]予想される電子エネルギーは、核子の結合エネルギーよりも大きく、アストンなどは核子あたり9 MeV未満であることを示しました。[46]
どうやら電子は運動エネルギーを持つことで、エネルギーつまり電圧が高くなると考えていたようだ。電気的地球科学では、電圧は電子の大きさであると主張している。大きさが変化することで、パイ中間子、ミュー粒子、電子などに変化する。
核内電子説は、スピンに対する理解、固定された電子、電子のエネルギー変化に対する解釈の違いから、排除されたと考えられる。とくに電子の持つ電圧が変わることで、電子の大きさが変化するという現象が認められていなかったことが大きいのではないか。現在でも電子の大きさについてはほとんど言及されていない。量子力学が袋小路に入っていった時期と過程が明らかになったと思う。これがはっきりすれば、量子力学を脱構築することが可能になるといえる。
1920年代、量子力学がまだ確立されていない時代、原子核は陽子と電子で構成されているという核(内)電子説があった。日本では核内電子説は科学史でもほとんど触れられることがない。wikipediaの「中性子の発見(英語版)」から、Google翻訳で紹介してみよう。
核電子仮説の問題
1920年代を通じて、物理学者は原子核が陽子と「核電子」で構成されていると考えていました。[8]:29–32 [37] [38]この仮説では、窒素-14(14 N)核は14の陽子と7つの電子で構成され、+ 7の基本電荷単位の正味電荷を持つことになります。そして14原子質量単位の質量。核は、14 N原子を完成させるために、ラザフォード[27]によって「外部電子」と呼ばれる別の7電子によっても周回しました。しかし、仮説に関する明らかな問題が明らかになりました。
Ralph Kronigは、1926年に、観測された原子スペクトルの超微細構造が、陽子-電子の仮説と矛盾していることを指摘しました。この構造は、軌道を回る電子のダイナミクスに対する核の影響によって引き起こされます。想定される「核電子」の磁気モーメントは、ゼーマン効果と同様の超微細なスペクトル線分裂を生じるはずですが、そのような効果は観察されませんでした。[39] [8]:34 それはまるで電子が核内にあるときに磁気モーメントが消えたように見えた。
1929年のフランコラセッティによる分子のエネルギーレベルの観測は、陽子電子仮説から予想される核スピンと矛盾していました。[8]:35 [40]二窒素(14 N 2)の分子ラマン分光法は、偶数の回転レベルからの遷移が奇数レベルからの遷移よりも強いことを示したため、偶数レベルがより多く存在します。[1]量子力学とによるパウリ排他原理のスピン14の N核の整数倍ことであるHは(プランク定数を減らした)。[41] [42]しかし、陽子と電子の両方が1/2固有スピン搬送 時間、及び±半スピンの奇数(14個のプロトン+ 7つの電子= 21)を配置する方法がない 時間であるスピンを与えることが整数倍ħ。
クラインのパラドックス、[43]によって発見オスカル・クライン 1928年には、核内に閉じ込められた電子の概念にさらに量子力学的異議を提示します。[39]ディラック方程式から導かれたこの明確で正確なパラドックスは、ポテンシャル障壁に近づく高エネルギー電子が障壁を通過する確率が高いことを示した。どうやら、電子はポテンシャル井戸によって核内に閉じ込められなかったようです。このパラドックスの意味は、当時激しく議論されていました。[39]
1930年頃までに、原子核の陽子-電子モデルを量子力学のハイゼンベルグ不確実性関係と調和させることは困難であると一般に認識されていました。[39] [1] :299この関係、Δ X ⋅Δ P ≥半Hは、領域に閉じ込められた電子は原子核のサイズが有することを意味期待 10~100メガ電子ボルトの運動エネルギーを。[1] [44] [45]このエネルギーは、核から放出されるベータ粒子の観測エネルギーよりも大きい。[1]予想される電子エネルギーは、核子の結合エネルギーよりも大きく、アストンなどは核子あたり9 MeV未満であることを示しました。[46]
これらの考慮事項はすべて、電子が核に存在できないことを「証明」するものではありませんでしたが、物理学者が解釈するのは困難でした。1931年の教科書で、ガモフはこれらの矛盾をすべて要約しました。解釈の混乱に加えて、ベータ崩壊電子の連続的なエネルギー分布は、エネルギーがこの「核電子」プロセスによって保存されていないことを示しているように見えました。確かに、ボーア、ガモウ、ハイゼンベルグなどは、量子力学の法則が核内部では適用されない可能性を考慮しました。[8]:40 [35]量子力学の法則がごく最近古典力学の法則を覆したので、そのような考察は明らかに合理的でした。核に電子が存在しないことに気づくまで、矛盾は神秘的で面倒でした[37]。
太線で強調した部分に注目すれば、原子核内部に電子が存在しないことは、誰も証明していないことが分かる。湯川博士がメモ書きで残したように「核内に於いては electron の存在を否定することが果して当を得て(い)るかどうか、にわかに判断することが出来ない」状況で、核内電子は中性子に置き換えられてしまった、と言えるのだ。
でも、なんでこんな重要なことが、国内では知らされていないのだろう?
20世紀初頭、量子力学の黎明期、原子核内に電子が存在する核内電子という概念があった。1932年にアメリカのチャドウィックが中性子を発見すると、ハイゼンベルクは短い論文を発表した。この論文を湯川博士は筆記した。そこにメモ書きがある。
鉛筆書きのメモは読み難いが以下の様な内容らしい。
「要するにこの論文の特徴は核Electron の問題に関係した難点を Neutron 自身に押しつけて了って、核が Proton、Neutronのみより構成せられるという考えが原子核の安定性に就いて定性的に如何なることがいいうるか考察したるものであって、核内に於いては electron の存在を否定することが果して当を得て(い)るかどうか、にわかに判断することが出来ないが、核を構成する単位粒子の間の相互作用がもっと明らかにされぬ限り、この論文の程度の漠然たる推論で満足する他ないであらう。」・Heisenberg の原子核構造理論の日本数学物理学会誌への詳細な紹介と1933年の学会講演「核内電子の問題に対する一考察」より
この論文で、ハイゼンベルクは原子核が陽子と中性子によって構成されているとした。だが、この時点において、核内電子の存在はまだ考慮し続けられていた、といえる。湯川博士は自身が予測した中間子は、「Neutron が electron を emitして Proton になり、Proton が electron をabsorb して Neutron になりうるということ自身が、Neutron、Proton の間の interaction の原因となること、あたかも electron が radiation を emit 又は absorb しうるということがelectron 同志(原文ママ)の interaction の原因となる如きものと考えられる。」と書き記している。
要約するなら「中性子が電子を放出して陽子になる、陽子は電子を獲得して中性子になりうる。中性子、陽子の相互作用の原因となる電子のようなもの」が中間子ということのようだ。湯川博士は計算により、中間子の質量が電子の約200倍であると予想していた。ミュー粒子の質量が電子の200倍なのは、偶然ではない。現在では、パイ中間子→ミュー粒子→電子、という崩壊過程が明らかになっている。
湯川秀樹、量子力学創生の中心にいた研究者が核内電子説を検討していたことは重要な事実だろう。だが、このあたりの資料には、電気引力・斥力についての考察が見当たらないのも事実だ。マクスウエルが見逃したファラデーの電気力線の直進性が、核内電子説を裏付ける重要な要素になるはずだった。ドブロイ波が主張されたのが1924年だから、1932年のハイゼンベルクの論文まで約8年間、まだ修正できるチャンスがあったことになる。だが1939年に第二次世界大戦が始まるため、各国の研究者は引き離された。もし、戦争がなく、研究者の意思疎通が続いていたとしたら、核内電子と軌道電子の及ぼす影響に誰かが気がついた可能性がある。
現在の量子力学を台頭させた原因は、第二次世界大戦であると言えるかもしれない。